4月18日は祖母の命日(前編)

一発目から辛気臭い話で恐縮ですが、このためにブログを再開したのでご容赦ください。まあ、私のための記事でしかないので、読まなくて結構です。嘘。読んで欲しいから書くのに決まってるじゃんね。

4月18日深夜に母方の祖母が亡くなりました。葬儀までの記録を書いておきたいと思います。

 

4月17日23時ごろ

母親より祖母危篤の電話が入る。祖母は昨年10月より入院中で、入院中に認知症がヤバくなり、褥瘡も発生し、それが原因で発熱などしていたので、「まさか」というより「ついに」という感じ。

 

4月18日0時過ぎ

布団でうとうとしていたら、父親より祖母が亡くなったとの電話が入る。どうしようもないので再び目を閉じたが、眠れた気はしなかった。

 

4月18日8時過ぎ

ゴミ出しがあったので8時前には起きていた。朝ごはんを食べ、実家に帰ったほうが良いのか考える。帰りたいが、コロナもあるし、大雨だし…

父親と電話で話し、母親に代わるが、話ができないほど落ち込んでいた。

これはヤバイと直感が告げるので、やはり実家に帰ることに。要で急である。

オープン同時にスーパーで食材を買い、保冷バッグに詰め替えて電車に飛び乗った。

ら、傘をホームのベンチに置き忘れた。ドアが閉まった直後に気づき、一駅戻って傘を回収する。電車は当然ガラガラで疎だった。

 

4月18日12時ごろ

実家着。八畳間の祖母の遺体と、その前で泣いている母親。祖母の顔は思っていたより穏やかで、少し安心した。ここ数ヶ月面会禁止で全然会いに行けなかったことは仕方ないのだが、やはり悔いが残る。合掌。

コンビニで適当に買って来たものでお昼ご飯。母親はおにぎりを食べるとのことだったので、急遽かきたま汁を作る。メソメソしながらも、おにぎりもおつゆも全部食べていたので一安心。私はご飯を食べていれば大丈夫教の信者なので。

食後、お茶を飲みながら、やはり母親は泣いている。その姿を見ていたら私も爆発してしまった。だって、一ヶ月ぶりに帰って来たのだ。その間母親は入院が必要な病気になり、面会にも行けず、心配で、早く会いたかったのだ。母親だって私に会いたかったはずだ。なのに私の方も見ずに泣いている。おかしいだろう。娘が帰って来たんだぞ!私だってもっと楽しい再会がしたかった!こんな時に病気になってごめんねと母親が言うので、こんな時に死にやがって馬鹿野郎だろ!!逆だ!!と叫んでわんわん泣いた。

 

泣いたらスッキリしたのでおやつを食べ、祖母が好きだったエリーゼのためにを弾いた。何も覚えていなかったが、二、三度弾いたら形になった。初めて弾いた時はあんなに難しかった曲が面白いほど簡単だ。ピアノを弾いていると、人が死んだとは思えないほど楽しい気持ちになった。私は「音楽の力」みたいなものを信じていない、というか、「力」があろうとなかろうと音楽には価値があると信じているのだが(人間は社会の役に立たずとも価値があるのと同じように)、「音楽の力」を感じざるを得ない体験だった。

 

4月18日19時半ごろ

夕方に作り置きのおかずと夕飯をせっせと用意し、鶏肉の照り焼きやら切り干し大根やらでご飯を食べた。人に料理を振る舞うのはやはり楽しい。ちょうど食後のお茶を飲んでいる時、葬儀屋さんが打ち合わせに来るとの連絡が入る。20時に来る予定だったが、前の予定が早く終わったようだ。

通夜と告別式、火葬の段取りを決める。今回は人を呼ばずに(呼べずに)家族だけの式になるので、決めるべきことも特にないが。気楽といえば気楽だ。明日の朝、納棺をするとのことだった。

 

4月19日9時半

葬儀屋さんと納棺師さんたちが来る。通夜と出棺、火葬の時間が決まったそうだ。

祖母は服を着せ替えてもらい、化粧をしてもらった。みんなでシーツを持って棺に納める。布団に寝ているだけだった祖母が箱に納まると、なんだか泣けてきた。

ドライアイスを入れて蓋をする。納棺師さんが説明の時に「暖かいのが苦手なお身体の状態なので〜」と言っていたのが面白かった。斬新な表現だ…

全て終わったのは11時ごろ。昼食に卵チャーハンを作ってもそもそと食べる。明日は仕事なので13時過ぎの電車で自宅に帰る。流石に疲れたし、着ていた服が線香くさい。気分を盛り上げるために、夕飯にはスーパーでちょっと良いお寿司を買って食べた。

再び実家に帰るのは、22日、通夜の日だ。

(後編へ続く)